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【世界史】歴史年号の最低限覚えるべき語呂合わせ一覧!高校・大学受験で使える面白いもの!

年号語呂合わせ覚えやすい語呂受験で使える世界史歴史

2024/02/02

今回は世界史で覚えるべき年号を一覧でご紹介します。

ヨーロッパ・アジア・アメリカ大陸・アフリカ大陸に分かれているので、地域・年代ごとに見ることができます。

受験に必須のものばかりなので、ぜひ参考にしてみてください!

目次[ 表示 ]

【ヨーロッパ編】受験で使える!覚えやすい歴史年号の語呂合わせ

紀元前1000~500年の覚えるべき年号

前594(酷使)を禁止 ソロンの改革

ソロンは前7世紀から前6世紀に活躍したギリシア、アテネの政治家です。

王政から貴族政に移行し、市民の不満がたまっているのを感じたソロンは、アルコンになり全権を委ねられたため、市民生活を保護する改革を行いました。

彼の改革の代表的なものは、負債の帳消し、債務奴隷の禁止、財産政治です。

また、ドラコンに続いてポリス社会の規範となる、厳格な法も立てました。

その後に行われたのがペイシストラトスの僭主政治でした。

僭主は前508(困るわ)陶片追放

前508年にはクレイステネスの陶片追放(オストラキスモス)が行われました。

オストラキスモスとは、僭主の出現を防止し、民主政の確立を目指したものです。

クレイステネスは、オストラキスモス以外にも、アテネの血縁的な4部族性を改めて、デーモスを単位とする地縁的な10部族性にしたり、五百人評議会を設けたりしました。

前500(500)円でも税金嫌だとペルシア戦争(ミトレス反乱)

ミトレスはイオニア地方の中心都市で、ミトレスの反乱が直接的にペルシア戦争に繋がっていきました。

対決したのは、アケメネス朝ペルシアと古代ギリシア都市国家連合軍で、4度にわたり、ペルシア軍が陸路、海路からギリシアに侵攻し、戦後アテネに民主政が確立するという歴史的に大きな意味をなした戦争でした。

またこの戦いの結果、アテネを盟主としてデロス同盟が結成されました。


・前490年 マラトンの戦い
この戦いで抑えるべき人物はペルシア軍のダレイオス1世です。
またアテネ軍の重装歩兵部隊も忘れてはいけません。

・前480年 テルモピュライの戦い
ペルシア帝国のクセルクセス1世がダーダネルス海峡を渡ってギリシアに侵攻し、レオニダスのスパルタ軍を破りました。

・前480年 サラミスの海戦
アテネのテミストクレスが男子を三段櫂船に乗り込ませ、アテネが勝利しました。
(名声をあげたテミストクレスですが、後に陶片追放されてしまいます。)

・前479年 プラタイアの戦い
クセルクセス1世は戦闘意欲を失ったため帰国していましたが、ペルシア軍はギリシアに残り、その後ぶつかりましたが、結果ギリシア側の勝利に終わりました。

紀元前499年~0年の覚えるべき年号

貴族と平民横451(横一)直線 十二表法

十二表法とは、ローマ最初の成文法で、古くからの慣習による規範を基礎として成文化したものです。

コンスルの独占367(去ろうな)リキニウス=セクスティウス法

リキニウス=セクスティウス法は、コンスルの1名を必ず平民会から選ぶことと、大土地所有を制限することを定めた法律でした。

2名のうちのコンスルの1名を平民から選ぶことにどんな意味があったのかというと、コンスルはディクタトル(独裁官)になれる権利を得られます。
独裁官になれば平民に有利な法律を定めることもできるのです。

前287年に定められたホルテンシウス法は実際に平民会からコンスルになり、ディクタトルになった人がつくった法律でした。

ホルテンシウス法により定められたのは、平民会での決議は元老院の承認がなくても国法になるということです。

これにより、平民は貴族と同等の権利を得られたと言えます!

133(勇み)足だよ、グラックス

前133年と前123年に護民官となったグラックス兄弟が行った改革は土地を失った人を助けようとしたものでした。

兄のティベリウス=グラックスは、前367年に定められたリキニウス=セクスティウス法に則った土地制度を復活させようとしますが、元老院から反対を受け、殺されてしまいます。

弟のガイウス=グラックスも結果自殺に追い込まれ、兄弟そろって失敗に終わってしまったのです。

334(散々支)配するアレクサンドロス

前334年にアレクサンドロス3世は東方遠征を行います。

実際にはコリントス同盟でギリシアをまとめた父フィリッポス2世が計画したものでありましたが、その意志を継ぎました。

また、前333年にはイッソスの戦いでダレイオス三世率いるアケメネス朝ペルシア軍を撃破します。

1から500年の覚えるべき年

395(ざっくりこ)われた ローマ帝国東西分裂

他民族からの外圧や内政不安で弱体化したローマ帝国は、395年に東西に分裂します。

4世紀末にローマの北方にいたゲルマン人はアジア系遊牧民のフン人の進出をきっかけに移動を開始しましたが、西ローマ帝国が混乱しているときにゲルマン人は国を作り、476年にゲルマン人傭兵隊長のオドアケルによって西ローマ帝国は滅ぼされました。

431(司祭)増えてね景気よく(エフェソス公会議)

エフェソス公会議とは、東ローマ帝国テオドシウス2世が招集した宗教会議で、ネストリウス派を異端としました。

年号の語呂には3つの要素が入っています。
「増えてね」の「え」はエフェソス公会議、「増えてね」の「て」はテオドシウス2世、「景気よく」の「景」はネストリウス派が中国で景教と呼ばれていることからです。

とても分かりやすい年号の語呂なので覚えましょう!

 

また、325年にも宗教会議が行われており、会議名はニケ―ア公会議で、アタナシウス派が正統とされました。

501~1000年の覚えるべき年号

754(難航)しました 土地寄進(ピピンの寄進)

754年、フランク王国の国王のピピン3世がローマ教皇にランゴバルト王国を倒して獲得したラヴェンナ地方を寄進したのが、ピピンの寄進と呼ばれるものです。

ピピンの息子がカール大帝(シャルルマーニュ)で、カールの戴冠や、ブリテンを除く西ヨーロッパ全域を統一したので有名です。

726(なじむ)レオン3世の聖像禁止

ビザンツ帝国のレオ3世は726年に聖像禁止令を出します。

ビザンツ帝国はイスラーム勢力と対立しており、聖像崇拝を固く禁止する宗教なので、目を付けられまいとこの法律を発布したのでした。

しかし聖像を利用して布教を行っていたローマ教会はこれに猛反発。

ビザンツ皇帝と絶縁状態になってしまいますが、政治的保護を受けるためにカールの戴冠などでフランク王国と手を組むことにし、これ以降協会の権威は上昇するのでした。

962(苦労人)にオットー1世(神聖ローマ帝国成立)

東フランク王国のオットーがマジャール人などを撃退し、オットーの戴冠でローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられました。

これが直接のきっかけとなって神聖ローマ帝国が成立しました。

1001から1500年の覚えるべき年号

ジョンに文句を1215(言いに行こう)(マグナカルタ)

マグナカルタは、貴族や年の代表者が、イングランド国王ジョンに強制的に認めさせた文書です。

マグナカルタの内容は「国王であれど法の下にある」ということです。

国王だからなんでもやりたい放題はやめてくれ!という民衆からの意見でした。

これは立憲主義の第一歩となり、イギリス憲法を構成している1部となっています。

1303(瞳を見つ)めてアナーニ事件

アナーニ事件は、教皇と仏王の対立で、教皇の衰退を象徴する事件でした。

ボニファティウス8世フィリップ4世により幽閉され、憤死してしまうのでした。

この後、フィリップ4世はローマにあった教皇庁を南フランスのアヴィニョンに強制移転させ、自らの監視下に置きます。

これをかつてユダヤ人が経験した「バビロン捕囚」になぞらえて「教皇のバビロン捕囚」といいます。

1339(戦炸)裂、百年戦争

百年戦争とは、1339年から1453年まで続いたイギリスとフランスの戦争です。

きっかけは、カペー朝断絶後に成立したヴァロワ朝の王にフィリップ6世が即位したことに対して、イギリス王エドワード3世が異議を唱えたことでした。

それに加えて、毛織物産業で栄えていたフランドル地方をめぐった領土問題もあり、両者の対立は深まっていき、戦争が始まります。

クレシ―の戦いでは、エドワード黒太子の活躍でイギリスが圧倒的有利な立場にいました。

しかし1422年に即位したシャルル7世の指揮のもと、フランスは猛反撃に出ます。
オルレアンに送られたフランスのジャンヌ=ダルクはイギリスからオルレアンを奪回し、それをきっかけにイギリス軍を次々に破っていき、イギリス軍はカレーの町のみを残して撤退に追い込まれたのです。

ジャンヌ=ダルクはただの農夫の娘でしたが、神のお告げを聞いたことをきっかけに立ち上がり、フランス軍に勢いをもたらしました。

1414(いよいよ)解決、大シスマ(コンスタンツ公会議)

コンスタンツ公会議では、教会大分裂を収束しました。

教会大分裂とは、教皇のバビロン捕囚以降、ピサとローマで教皇を名乗る人物が出てきてしまい、教皇が3人いるという不思議な状況になってしまったことです。

それを解決した会議が、コンスタンツ公会議でした。

また、ウィクリフとフスを異端とし、フスは焚刑に処されてしまいました。

1501~2000年の覚えるべき年号

1517(以降、否)とは言わせぬ、カトリック(九十五か条の論題)

九十五か条の論題を出したルターは、ドイツで宗教改革を行いました。

当時のローマ教皇レオ10世は、サン=ピエトロ大聖堂を改築するため、たくさんの費用を集めたいと考え、免罪符を販売しました。

免罪符とは、購入することで現世の罪が許され、死後に天国に行くことができるという札のことです。

ドイツでは教皇の権利が高くなかったため、ローマ教皇は好き勝手に免罪符を販売し、ドイツの農民はお金を絞り取られているという状況でした。

これを見たヴィッテンベルク大学の教授、マルティン=ルターは九十五か条の論題にて教皇を否定し、宗教改革を始めます。

ルター派はプロテスタントと呼ばれ、教皇を奉じるカトリックと対立していくのでした。

1598(以降、苦は)ないとナントの王令

ナントの王令は、ユグノー戦争を終結させたものです。

ユグノー戦争は、フランスで起きた、フランス国内のカルヴァン派とカトリックの争いと、有力貴族の王権をめぐる政治闘争も絡んだ戦争でした。

ユグノー戦争の最中、サンバルテルミの虐殺という、ユグノーであるブルボン家のアンリが国王シャルル9世の妹と結婚することを祝いに集まったユグノーたちが旧教徒のカルヴァン派によって大虐殺されてしまった事件もありました。

その後、アンリはアンリ4世として国王になり、ナントの王令を発し、条件付きの信仰の自由を保障しました。

ユグノー戦争からナントの王令までの一連の流れを覚えておきましょう!

1642(異論世に)満ち、ピューリタン革命

ピューリタン革命は清教徒革命とも呼ばれ、クロムウェルが中心となって、王の専制政治を倒し、宗教的自由を求めた者たちが革命を起こしたのです。

彼らはピューリタンが多かったため、こう呼ばれます。

この革命によってチャールズ1世は処刑され、共和制が実現されました。

1648 ウェストファリア条約

ウェストファリア条約は、最大の宗教戦争である三十年戦争の講和条約です。

神聖ローマ帝国内のカトリックとプロテスタントとの争いから始まり、最終的にはスペイン=オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン朝による政治的争いへと変わっていきました。

ウェストファリア条約によって神聖ローマ帝国は解体され、一部の国は独立を承認され、その例がオランダとスイスです。

その後、主権国家体制が確立し、国際法がつくられました。

国際法の父、グロティウスは、『戦争と平和の法』で、自らの経験をもとに正統性のない戦争を禁止しました。

1789(非難爆)発、フランス革命

17世紀のフランスでは、絶対王政の体制が激しく、貧富の差が大きくありました。
そのため民衆の不満は徐々に高まっていき、ついに1789年、フランス革命が起きました。

当時の治世はルイ16世でした。
先々代のルイ14世も先代のルイ15世もたくさんの負債を積み重ね、ついにそれまで課税の義務がなかった第一身分、第二身分の人にも課税を求めました。

三部会が招集されましたが決着は付かず、第三身分だけで国民議会をつくり、第一身分、第二身分も課税するという憲法をつくるまでは国民議会は解散しないという宣言をしました。

これはヴェルサイユ宮殿に隣接するテニスコートで集まって行われたことから「テニスコートの誓い」といいます。

その後、国民議会と対立したルイ16世は軍隊を集めますが、それに反発した民衆は武器を求めて「バスティーユ牢獄襲撃」を行います。

これを機にフランス革命がスタート。

人権宣言を行い、ヴェルサイユ行進があり、ルイ16世はついにヴァレンヌ逃亡事件」で国民の信頼を完全に失い、立憲君主政の体制が完成するのでした。

1919(行く行く)ワイマール

第一次世界大戦で敗北したドイツは帝国から共和国になり、民主主義憲法をつくりました。

それがこのワイマール憲法です。

この憲法は世界で初めて社会権を保障した憲法として有名なので、「社会権」という言葉が出てきたらワイマール憲法を問う問題である可能性が高いです!

みんな1919(行く行く)非暴力運動(インド統治法)

インド統治法はイギリスがインドを直接統治するために制定した法律の名前です。

1858年のインド統治法はインド大反乱を受けて制定されていましたが、1919年のインド統治法では、インドに対して懐柔の姿勢でつくられた法律でした。

1939(戦、苦)しい、第二次世界大戦

1939年、ドイツがポーランドに侵攻して、第二次世界大戦が始まりました。

当時のドイツの指導者であるヒトラーは、ドイツの領土を拡大するという野望を持っていたため、ポーランドだけでなく、ソ連やフランスにも攻撃を与えました。

ドイツ、イタリアを中心とする枢軸国とイギリス、フランスを中心とする連合国がぶつかり合い、世界大戦へと発展しました。

1945(引く仕事)、敗者に辛いポツダム宣言

ポツダム会談では、トールマン、チャーチル(のちにアトリ―に引継ぎ)、スターリンが会談し、戦後のドイツと日本の処理を決定しました。

日本には、無条件降伏・武装解除・民主主義の実現・連合国による管理・日本の領土規定などが定められました。

【アジア編】受験で使える!覚えやすい歴史年号の語呂合わせ!

紀元前1000~500年の覚えるべき年号

前770(七難)避けて周の東遷

紀元前11世紀後半に殷に変わって渭水地方の鎬京に都をおいた周は、封建制の仕組みで諸侯をおさえ、長期にわたって統治をしていましたが、異民族犬戎などを恐れ、洛邑に都を移しました。

これ以降は東周と呼ばれますが、周王の王権が衰退してしまい、春秋・戦国時代の幕開けとなります。

紀元前499~0年の覚えるべき年号

前221(ふーふー言)って秦統一

前221年に秦が中国を統一しました。

そしてこのとき初めて”皇帝”を名乗ったので、秦の統治者は始皇帝と呼ばれます。

前141(いよい)よ武帝の時代

武帝は漢の全盛期の皇帝です。

彼が行ったことは、郡県制の施行、塩・酒・鉄の専売、均輸・平準の施行、五銖銭の鋳造です。

さらに衛氏朝鮮を征服し、楽浪郡など朝鮮4群を設置しました。

また張騫を大月氏に派遣し、匈奴を討伐しました。

その際、古代中国で名馬と称される汗血馬も手に入れるという、歴史にたくさんの功績を残した人物です。

1から500年の覚えるべき年号

184(いやよ)いやよで黄巾の乱

黄巾の乱は後漢の時代に起きた反乱です。

反乱軍が頭に黄色い頭巾を巻いていたことからこの名前がつきました。

首謀者は太平道の教祖、張角です。

この反乱は後に魏、呉、蜀の三国の誕生を招きます。

501~1000年の覚えるべき年号

663(む、無残)白村江の戦い

663年に日本&百済連合軍vs唐&新羅連合軍との戦いが朝鮮の白村江で行われました。

唐は618年に建国したばかりでありましたが、この戦いに勝利したことも大きな要因となって「貞観の治」と呼ばれる、中国史上で最もよく治まった時代を成し遂げられました。

751(なぁ来い)紙持って(タラス河畔の戦い)

タラス河畔の戦いは、アッバース朝と唐の戦いです。

唐が破れたことによって、中央アジアのイスラーム化が進んでいきました。

反対に中国から製紙法がイスラームの世界に伝わるきっかけでもありました。

楊貴妃に非755(難ごうごう)安史の乱

安史の乱とは、玄宗皇帝の時代、節度使の安禄山とその意志を継いだ史思明らにより引き起こされた反乱です。

玄宗皇帝の寵愛を受けた楊貴妃とその甥の楊国忠と対立した安禄山が楊氏の排除のために立ち上がりました。

モンゴルの騎馬遊牧民であるウイグルが一連の反乱を押さえましたが、人口の2/3が失われたとも言われています。

780(名は)炎、両税法

780年に宰相陽炎によって提案された両税法が採用されました。

安史の乱によって唐は荒廃し、それまで上手くできていた均田制と租調庸制が崩壊したため、この法になりましたが、明代の一条鞭法まで継続しました。

875(やな抗)争に応戦し(黄巣の乱)

塩の密売人、黄巣と王仙芝は重税反対を掲げて反乱を起こしました。

加わったのは、塩の密売に圧をかけられ苦しんでいた密売人たちと、塩の高騰に苦しんだ農民たちでした。

これによって全土に反乱が広がった唐は衰退していき、907年に朱全忠によって滅ぼされました。

1001から1500年の覚えるべき年号

1206(いずれ向)かうぞ チンギス=ハン

チンギス=ハンはモンゴル系部族とその周辺遊牧民諸部族を統一して「モンゴル帝国」を建国しました。

その後に開催した、「クリルタイ」という部族長の大集会はよくテストに出ます!

モンゴルに1258(人に壊)されバグダード(アッバース朝滅ぼす)

モンゴル軍は1258年、フラグに率いさせてバグダードを占領します。

1351(いざこい)紅巾の乱

1351年には、白蓮教徒が中心となって紅巾の乱が勃発します。

これにより台頭してきたのが朱元璋で、元の都であった大都を奪い、後に洪武帝(太祖)として1368年に明を建国します。

1402(異様に)強い、永楽帝

1399年から続いた靖難の役に勝利し、1402年に明の第3代皇帝に即位しました。

彼は朝貢貿易で明を発展させるべく行った、鄭和の南海派遣なども彼の治世であり、日本とは勘合貿易で日明貿易を開始しました。

土木工事で1449(石よく)出るなぁ(土木の変)

1449年、交易の拡大を求めたオイラトのエセン=ハンが明領に侵攻し、正統帝を捕虜にした戦いです。

1501~2000年の覚えるべき年号

1616(いろいろ)あってヌルハチ後金建国

1616年にはヌルハチが女真族を率いて北側に後金(アイシン)を建国しました。

女真の完顔阿骨打はかつて12世紀に金という国を建国しており、それと区別するために後金と呼ばれています。

後金はヌルハチの後を継いだホンタイジによって清と改められます。

後金では満州文字の制作や、八旗という制度がつくられ、人々はすべて八旗に編成されて軍事を編成していました。

1644(疲労し、死)す明王朝(李自成の乱)

明では戦費調達のために民衆に重税がかけられ、我慢の限界を迎えた彼らは次々に反乱を起こしました。

それは都市部だけでなく、農村部にも頻発し、その中で起きたのが李自成の乱でした。

李自成らは洛陽を攻め落とし、開封や西安などの主要都市を攻め落として北京に差し掛かったときに呉三桂と戦い、破れますが、皇帝がすでに自殺していたために明は滅亡してしまったのです。

いろ1689(いろ約)束 ネルチンスク条約

ネルチンスク条約とは、1689年に清とロシアが結んだ国境画定条約です。

康熙帝とピョートル1世の間に結ばれ、アルグン川とスタノヴォイ山脈を両国の国境と定めました。

1840(人はヨレ)ヨレ、アヘン戦争

アヘン戦争は清とイギリスの戦争です。

イギリスは清にアヘンという麻薬を強引に売りつけていました。

それはイギリスが清の銀を欲しがっていたからで、税を銀で納めなくてはいけない農民たちは銀が海外に大量に流出してしまったことによって倍になった銀価に追いつけず、生活が破綻してしまいます。

そこで官僚の林則徐が1425トンのアヘンを没収・焼却し、アヘン貿易の厳禁を言い渡しました。
怒ったイギリスは清に戦争を仕掛け、そこで始まったのがアヘン戦争でした。

この戦争の条約は南京条約です。

清に不満な1851(人は来い)!太平天国の乱

アヘン戦争に敗北した清は、多額の賠償金をかけられ、農民たちに重税がかけられました。

そこで農民たちは洪秀全をリーダーに太平天国の乱を起こしたのです。

太平天国という国をつくり、南京を占領、そこを天京と改称し、都にしました

彼らのスローガンは「滅満興漢」で、満州人の国家を倒して、漢民族の国家を興す、つまり清を倒して自分たちの国を作り上げようとしたのです。

彼らは民衆の支持を得るため、男女平等を訴えました。

その例が、天朝田畝制作や、纏足、辮髪などの悪習の廃止でした。

アロー号の1856(一派ごろ)つき、捕えられ。(アロー戦争)

イギリスの国旗を掲げていた中国船を清朝警察が海賊容疑で捕らえたことが事の始まりでした。

それはイギリスに対する侮辱だと主張し、フランスのナポレオン3世に共同出兵を持ちかけ、清は強大な2国に成すすべもなく敗北しました。

これにより天津条約が結ばれようとしたとき、清も予想していなかった事件が発生します。

清の保守派らが英仏の使節に発砲したのです。

再び軍事行動が始まり、英仏は北京を占領、円明園を破壊し、最終的に北京条約で終結するのでした。

1894(白紙)に戻す、柵封体制(日清戦争)

1894年、朝鮮の支配権をめぐって始まったのが日清戦争です。

この戦争のきっかけは、甲午農民戦争でした。

日本の朝鮮進出が本格化する中で、当時の朝鮮では西学と呼ばれるキリスト教と朝鮮独自の思想が結びついた新思想が生まれていき、崔済愚が創始者の東学と対立していきます。

東学はアジア以外の思想や宗教を嫌う排他的なものであったため、朝鮮から国外勢力を追い出そうと始まったのが甲午農民戦争でした。

朝鮮は清に助けを求めたところで、日本は朝鮮にいる日本人保護を掲げて出兵します。

これにより清と日本の全面戦争に発展したのです。

日本が勝利し、下関条約が結ばれました。

1919(行く行く)三・一独立運動

三・一独立運動とは、日本に支配されていた朝鮮で、日本からの独立を受けてデモ行進が行われました。

3月1日に行われたことが名前の由来です。

また、同年に五・四運動も行われています。

こちらは中国で行われたデモ行進で、二十一か条の要求やベルサイユ条約の内容に抗議するものでした。

こちらも5月4日に行われたことが名前の由来です。

1931(行くさ1)発、柳条湖事件

1931年、世界恐慌で莫大な被害を受けた日本は、石炭や鉄鉱石が採れる満州を手に入れようと満州事変を起こしました。

関東軍(満州鉄道を守備する日本軍)は柳条湖で、南満州鉄道の線路を爆破し、満州全土を占領しました。

1937(いくぞみんな)で盧溝橋事件

盧溝橋事件とは、日中戦争のきっかけとなった事件です。

中国にいた日本軍が演習を行っていた際、中国からの攻撃を受けて始まった事件です。

1950(行く号令)かかる朝鮮戦争

第二次世界大戦で日本が敗れたため、朝鮮は植民地支配から解放されます。

しかし北緯38度線を堺に米ソの分割占領を受けることになってしまい、南部には李承晩を大統領とする大韓民国が、北部には金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が成立します。

北朝鮮は韓国に侵入し、韓国を救うために米軍主体の国連軍が出動したり、朝鮮を救うために毛沢東率いる中国の人民義勇軍が参加したりして、戦争は横着状態に。

1953年に朝鮮休戦協定が結ばれ、今でも休戦中です。

【アメリカ大陸編】受験で使える!覚えやすい歴史年号の語呂合わせ一覧

1702〜13(いーな、待つ?いーさ)アン女王戦争

アン女王戦争はイギリス、フランス間の戦争で、勝利したのはイギリスでした。

アメリカ植民地における領土争いで、ユトレヒト条約が締結されました。

1732(人並みに)働きたい13植民地成立

17世紀から18世紀前半にかけてイギリスからアメリカへやってきた人たちが植民地を建設しました。

場所は北アメリカの大陸の東海岸で、最初につくられたのがヴァージニアです。

その他の抑えるべき場所は、ニューヨーク、ニューイングランド、ペンシルヴェニア、ジョージアです。

13植民地の人々はイギリスの生活に準じていました。
その例の1つが植民地議会で、イギリス議会を手本に、13の植民地それぞれで行われていました。

またテストに頻出なのが、プランテーションです。

黒人奴隷を労働力として商品作物の栽培を行っていました。

1744~48(いーな獅子の世や)ジョージ王戦争

ジョージ王戦争はイギリスとフランスがアメリカ大陸で行った戦争です。

オーストリア継承戦争でイギリスが覇権を手に入れ、フランスはそれが気に入らずに戦争が始まってしまったのでした。

勝敗は結局つかずに、アーヘンの和約で互いに占領地を交換して終了しました。

1755(いーなごーごー)フレンチ=インディアン戦争

フレンチ=インディアン戦争もイギリスとフランスの争いでした。

農業植民地を広げたいイギリスと交易路の確保をしたいフランスの互いの思惑が衝突したのです。

こちらもアン女王戦争同様、イギリスの勝利でした。

この争いは、1763年に結ばれたパリ条約にて終結しました。

1773(非難波)立つボストン茶会事件

イギリスの植民地政策に反対したアメリカ市民が、東インド会社からの輸入船に詰まれている紅茶を海に投げ捨てた事件です。

1770年にはボストン虐殺事件も起きており、これらの事件がアメリカ独立戦争に繋がっていきました。

1776(いーな、なろう)よ、独立国家に(アメリカ独立宣言)

アメリカ独立宣言は、アメリカの13州がイギリス植民地から独立する際に発表した宣言です。

アメリカ宣言の起草者はジェファーソンで、平等や自由などの権利を訴えました。

1781(名はい)い町、ヨークタウン(ヨークタウンの戦い)

ヨークタウンの戦いはアメリカ独立戦争の決定的な戦いでした。

ワシントン率いるアメリカ・フランス連合軍が、イギリスに大勝しました。

フランスの1803(人は押さ)れてルイジアナ売る(ルイジアナ買収)

ルイジアナは歴史上、たくさんの国との関わりがあるのでややこしいですが、覚えておく必要があります。

まず1763年のフレンチ=インディアン戦争でのパリ条約でルイジアナをフランスは、ミシシッピ川以西とニューオリンズをスペインに、以東をイギリスに譲渡しています。

しかしそのあとの1783年のパリ条約で、ミシシッピ以東はアメリカ合衆国領になります。

ミシシッピ以西は1800年にフランスに返還され、1803年にアメリカが買収し、最終的にルイジアナ全土をアメリカが手に入れるに至りました。

州の団結1812(祝いに)アメリカ=イギリス戦争

ナポレオン統治下のヨーロッパで、イギリスがアメリカとフランスの貿易を妨害したことなどに対するアメリカの反発から戦争に発展しました。

これによりナポレオンは没落してしまいます。

結果はアメリカ国内では勝敗はつきませんでしたが、この戦争からアメリカ合衆国のナショナリズムが高まり、産業と経済の自立の時期を迎えるのでした。

1820(嫌に大)盛りミズーリ協定

当時のアメリカは、奴隷制禁止の自由州と、奴隷制を認める奴隷州がありました。

ミズーリ協定では、北緯36度30分以北を自由州、以南を奴隷州としたのでした。

その後の1854年には、カンザス・ネブラスカ法が完成しますが、これは新しい州が誕生する際に奴隷州にするか自由州にするかを住民の意志で決めることができる法律でした。

1823(いや罪)だもの、干渉は(モンロー教書)

モンロー教書は、モンロー大統領が出した宣言です。

アメリカ合衆国はヨーロッパ諸国に干渉しない、しかし同時にアメリカ大陸全域に対するヨーロッパ諸国の干渉にも反対するという内容で、相互不干渉をうたいました。

1846(いや、よろ)しくアメリカ=メキシコ戦争

アメリカ=メキシコ戦争は、アメリカがメキシコから領土を奪った戦争です。

1821年にスペインから独立したメキシコは、この戦争でカリフォルニアからニューメキシコ、テキサスに渡る地域を奪われてしまいました。

1861(いや、無意)味な南北戦争

南北戦争は、アメリカの北部と南部の貿易や奴隷制に対する考え方の違いにより発生した戦争です。

貿易に関しては、北部は保護貿易派、南部は自由貿易派で、奴隷制に関しては北部は奴隷を開放すべきと主張し、南部は奴隷制の維持を主張していました。

リンカーンはこの戦争で北部の勝利を導き、その中には有名な奴隷解放宣言もありました。

1898(厄払)いだアメリカ=スペイン戦争

アメリカ=スぺイン戦争は、キューバを巡って起こった戦争です。

キューバはコロンブスの西インド到達直後にスペイン領となって以来、クリオーリョによる佐藤プランテーションが続いており、独立のためにホセ=マルティが指導者となって運動し、1895年に独立宣言を発布しました。

しかしスペインの弾圧は続いており、メイン号事件をきっかけにし、マッキンリー大統領がスペインに宣戦した戦争の結果は、アメリカの勝利に終わりました。

【アフリカ大陸編】受験で使える!覚えやすい歴史年号の語呂合わせ一覧!

紀元前1000~500年の覚えるべき年号

前612(無為に)滅んだアッシリア(アッシリア滅亡)

アッシリアは、アッシュルバニパルや、サルゴン2世などの優秀な王を生んだ国です。

140年間、世界帝国として栄華の時代を歩んでいましたが、エジプトやバビロニアからの反発、メディア人やカルデア人、スキタイ人などの圧迫を受けて滅亡してしまいました。

連行 前586(こばむ)バビロン捕囚

バビロン捕囚は、新バビロニア王国のネブカドネザル2世がユダ王国を滅ぼした際に、イスラエル人をバビロンに連れていき、移住させた事件です。

連行された人々は、前538年にアケメネス朝ペルシアのキュロス2世が新バビロニアを滅亡させたときまで解放されませんでした。

紀元前499年~0年の覚えるべき年号

前330(耳を)疑うアケメネス朝滅亡

アケメネス朝は、マケドニアのアレクサンドロス大王が東方遠征の際にガウガメラの戦いで滅ぼされました。

アケメネス朝最後の王であるダレイオス三世は逃走中に殺害されました。

1から500年の覚えるべき年号

622(無実)の罪メッカ追われるムハンマド(ヒジュラ)

ヒジュラ(聖遷)とは、移住のことです。

イスラムの預言者であるムハンマドと彼に従うムスリムたちは、622年にメッカからメディナに移住しました。

その理由は、神アッラーの言葉を聞いて、富の独占を批判したためにメッカで迫害されたためでした。

642(無用に)なったササン朝(ニハ―ヴァンドの戦い)

ニハ―ヴァンドの戦いは、ササン朝とイスラムの戦いです。

第2代正統カリフのウマルは、西武イランのニハ―ヴァンドでササン朝を破り、東進の道を切り開きました。

661(無論言)うまい、だまし討ち(ムアーウィア即位)

第4代正統カリフのアリーが暗殺された後、シリア総督のムアーウィアはダマスクスを都にウマイヤ朝を樹立します。

ムアーウィア以降はカリフが世襲制となったため、それを認めない者やアリーの支持者は後のシーア派となります!

501~1000年の覚えるべき年号

732(波に)乗り、勝つフランク王(トゥール・ポワティエ間の戦い)

トゥール・ポワティエ間の戦いは、フランク王国とウマイヤ朝の戦いです。

この戦いでフランク王国は宮宰カール=マルテルの活躍で勝利しますが、ピレネー山脈を越えて侵攻してきたウマイヤ朝はかなりの脅威になりました。

1001から1500年の覚えるべき年号

1055(銃でここ)撃てセルジューク(セルジューク朝バグダード入城)

トゥグリル=ベクによって建てられたセルジューク朝は、1055年にブワイフ朝を破ってバグダードに入城しました。

トゥグリル=ベクはスンナ派で、自らはスルタンとして権力を握りました。

1299(1つにくく)れオスマン帝国(オスマン帝国成立)

オスマン帝国は東ローマ帝国を征服しながら建設された国です。

建国はオスマン1世で、1453年にはメフメト2世が難攻不落の都と思われていたコンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼしました。

全盛期はスレイマン1世で、ウィーン包囲で神聖ローマ帝国の拠点ウィーンを包囲し、ヨーロッパ・キリスト教世界に脅威を与えました。

また、イェニチェリというキリスト教徒の少年を徴用し、英才教育を受けさせて育成させるデヴシルメという制度で近衛部隊を作っていました。

いよ1492(いよ国)滅ぶ、グラナダ陥落

グラナダはナスル朝の都でした。

レコンキスタの進行で、イスラム勢力最後の拠点となっていましたが、スペインによって陥落しました。

スペインのイスラム文化遺産として有名なアルハンブラ宮殿は、ナスル朝の王宮だったことは覚えておきましょう!

1501~2000年の覚えるべき年号

1538(以降騒)がしい地中海(プレのヴェザ海戦)

プレヴェザの海戦は、オスマン帝国のスレイマン1世とスペインのカルロス1世が戦った海戦です。

130隻のオスマン帝国艦隊が、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の160隻の連合艦隊を撃破し、見事クレタ・マルタを除く地中海の制海権を握りました。

1571(いことな)いレパント(レパントの海戦)

レパントの戦いは、オスマン帝国のセリム2世がスペインのフェリペ2世、ローマ教皇ピウス5世、ヴェネツィアの連合軍に負けた戦いです。

これにより、プレヴェザの海戦でスペインが奪われた制海権がオスマン帝国から戻ってくると思いきや、翌年にチュニスを征服されて制海権は結局オスマン帝国に戻っています。

1957(ひどく困難)ガーナ独立

ガーナはそれまでイギリスの植民地になっていましたが、1957年にエンクルマの指導の下、独立することに成功しました。

黒人国家としては初めての独立でした。

1979 ソ連のアフガニスタン侵攻

1979年、ソ連のブレジネフ政権が、イスラム原理主義をおさえるためにアフガニスタンへと侵攻しました。

これが原因となり、経済の停滞などを引き起こしてソ連は崩壊していくのでした。

年号で歴史を深く理解しよう!

いかがでしたか?

世界史は覚えることがたくさんあるので、どこの国がなにをしたのか整理をつけるのが大変なことだと思います。

年号はそんなときに意外と役に立つので、ちゃんと覚えて試験にチャレンジしましょう!

この記事を書いた人

なる

群馬県出身の「なる」です。 主に、エンタメ・ビューティ・スポーツの記事を書いています。 洋画とバスケが大好きです。 日常に役立つ記事をお届けします!

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