今回は「ノルマントン号事件」の風刺画から歴史を見ていきたいと思います。
受験生にはもちろん、教養としてどの方にも楽しんでいただける内容となっておりますので是非ご覧ください!
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風刺画「ノルマントン号事件」が表す意味とは?
作者:ジョルジュ・ビゴー
1886(明治19)年にイギリスの貨物船ノルマントン号が紀州沖で難破して,翌日沈没してしまいました。外国人船員はボートで脱出したのにも関わらず、日本人乗客23人(25人とも)は置き去りにされ、全員水死してしまった事件です。その後、神戸領事裁判所でイギリスの判事によって行われた裁判でこの船の船長は軽い刑罰を受けただけでした。そのことに日本の世論は「日本の領事内で起きたことなのに、なぜイギリス人が裁判をするのか!」「船長は日本人を差別し、見捨てた。なぜ無罪なのだ!」と大反発。そして日米通商航海条約が結ばれ、その中で関税自主権の回復と共に日本の領事裁判権が認められたのでした。
領事裁判権ってなに?
領事(外国で自国の通商の促進や自国民の保護を行う人)が、自国の法に基づいてその駐在国にいる自国民の裁判を行う制度です。ここではイギリス人が日本の国内で起こした事件にも関わらずイギリスの判事がイギリスの法で裁きました。これには納得いかないですよね。しかしこの当時、1858年に結んだ日米修好通商条約で日本は領事裁判権を認めてしまっていたため罪を犯した外国人を裁く権利がありませんでした。そしてここから領事裁判権を無くそうと日本人は努力していき、その後1894年に陸奥宗光が結んだ日英通商航海条約で「領事裁判権の撤廃」に繋がりました。
日米修好通商条約ってなに?
何年に結ばれたの?
日米修好通商条約が結ばれたのは1858年です。
その前の1854年に日本はアメリカのペリーに開国をせがまれたために日米和親条約を結んでいました。世界の戦争情勢をみてイギリスの脅威に恐れていた日本は「アメリカと手を組まないと自分たちもイギリスに攻め込まれるかもしれない」と思い、不平等な条約を飲み込みました。それが「領事裁判権を認めること」と「日本に関税自主権がないこと」でした。
関わったのは誰?
日米和親条約はペリー、日米修好通商条約はハリスです。
2人ともアメリカの人です。
日米修好通商条約を結んだ日本人は、大老井伊直弼でした。
日米修好通商条約で開港したのは?
日米修好通商条約で開港したのは日米和親条約で開港した函館に加えて、横浜、神戸、長崎、新潟の4港でした。
幕府はこの開港地についても国民から大批判を浴びました。
風刺画から歴史を知ろう!
いかがでしたか?
ノルマントン号事件から見ていってもこんなにたくさんの時代背景が見えてきました。
結ばれた不平等条約などについてももっと掘り下げていっても面白いかもしれませんね!