今回は風刺画「セシル・ローズ」を基に第一次世界大戦まで掘り下げていきたいと思います。是非ご覧ください!
目次[ 表示 ]
風刺画「セシル・ローズ」が表す意味とは?
絵の解説
こちらの風刺画は19世紀のイギリスのケープ植民地首相セシル・ローズが行ったアフリカ縦断政策を風刺した絵です。彼は3C政策を展開しようとしていました。しかしドイツが行っていた3B政策という西アジア方面へ進出しようとする動きと衝突していました。そんな中でもセシル・ローズは「地球の表面を1インチといえども取らなければならない」といった言葉を残すほど植民地政策に対して貪欲に行いました。この風刺画が意味するところは、ローズの左足がカイロ、右足がケープタウンにかかっており、3C政策をそのまま表しています。ライフルを背に電信柱を敷設するのには、力で国々を抑え込むという意味が込められているのではないかと推測します。
セシル・ローズってどんな人?
イギリス人で南アフリカのケープ植民地首相でした。
1870年にイギリスから南アフリカに渡り、ダイヤモンドの採掘に成功し、加えてトランスヴァールの金鉱を独占しました。財力にものを言わせて政治家になり、ローズは併合した地域を自分の名前にちなんでローデシアと命名しました。結構我の強い方だったのでしょうかね。
3C政策とはなに?
イギリスが進めた3C政策とは?
この時代のヨーロッパの帝国主義列強はアフリカの分割にしのぎを削っており、イギリスもその一員でした。その中でイギリスは3C政策というアフリカとインドを結ぶ政策をとりました。1881年にエジプトを保護国にしたイギリスは、エジプトのカイロ(Cairo)、南アフリカのケープタウン(Capetown)、インドのカルカッタ(Calcutta)を結び、それぞれの頭文字をとって3C政策と呼ばれました。この目的はインド洋の制海権と通商航海の独占的地位の向上です。
3B政策とはなに?
ドイツが進めた3B政策とは?
3C政策とぶつかったのがドイツが進めた3B政策です。
ベルリンからオーストリアを経てバルカンを通り、バグダードからペルシア湾に至る地域に鉄道を敷いて経済的・政治的に支配しようとした動きでした。ベルリン(Berlin)、ビザンティウム(Byzantium)、バグダード(Baghdad)の頭文字で3B政策です。しかしこれはイギリスの3C政策だけでなく、ロシアの南下政策ともぶつかっていました。それでもこれを推し進めたのが世界政策に強く関心を抱いていたヴィルヘルム2世でした。
彼についてもっと知りたい方はこちらの記事を参考にしてみてください。
イギリスとドイツの戦いはいかに!?
勝敗はどちらにあがったのか!
3C政策を進めるイギリスと3B政策を進めるドイツはその後世界を巻き込んだ、三国協商VS三国同盟の戦いになっていきます。協商国はイギリス・フランス・ロシアで三国同盟がドイツ・オーストリア・イタリアの三国です。ドイツの動きが気に入らなかった3B政策のイギリスは南下政策でドイツが邪魔だったロシアと手を組んだのですね。
この戦いが第一次世界大戦です。そして勝敗はイギリス側が勝利しました。この背景にはアメリカの参戦が大きいと考えられます。アメリカははじめは中立だったのですが、ドイツが攻撃してしまったのです。やってしまいましたね。そしてそのあとはベルサイユ条約へと続いていきます。
風刺画から歴史を知ろう!
いかがでしたか。
今回は第一次世界大戦まで掘り下げていきました。
これを機に学びを深くしていってもらえたら嬉しいです!